稲生平太郎との出会い

 

 プロフィールの所で申し上げやんしたが、江戸での不始末が祟って三次へ帰ってきたんでがんすが・・・  

 権八は人気力士になりましたが我がままになって勧進元と喧嘩をするなどが批判され、相撲界を追い出されてしまいます。失意の権八は三次五日市に帰り平田五左衛門という侍の空き家を借りて住み着きました。 

 当時の農村では娯楽などは少なく、若者たちはそのはけ口を求め、中でも相撲などは人気の的でした。三次近郷の布野、君田、作木からも力自慢の若者が、権八の屋敷に通い相撲の稽古をつけてもらっていたようです。 

 権八が暮らす家の隣りに稲生武左衛門の屋敷があり、訳あって一人住まいをしていた稲生家長男の平太郎にも同じように相撲の稽古をつけていたとあります。その時平太郎は16歳、権八は38歳だったそうですが、ウマが合うというのか二人は意気投合し、親しく付き合うようになりました。

 そして仲が良ければこその意地の張り合いから肝試しと称して雨夜の比熊山に登ります。山頂の「たたり石」の前で百物語を語って妖怪が出てくるのを待ったのですが、それこそが「稲生物怪録」の始まりとなりました。

 

               激しく雨の降る夜、比熊山へと出かける平太郎を見送る三井権八

 

 それから先どうなったのか、繰り返しになるかも知れませんが、権八の生い立ちを含めて、権八自身に語ってもらいましょう。

 

 あっし(私)が生まれたのは布野村でがんす。子供のころから体が並外れて大きゅうて力が強うて、親が「権八は相撲取りに向いとるのう」言うもんで上方へ行って相撲取りになりやんした。のちに三次郡上里村(現三次太才町)まで帰ってきたんでがんす。そこで隣家の稲生平太郎さんと意気投合して肝試しに比熊山に登り「たたり石」の前で百物語を語ったのが妖怪との縁でがんす。 

 それからしばらくして平太郎さんの屋敷に妖怪が出てくるようになりやして、そりゃあもうすさまじいものでがんしたが、その模様を平太郎さんが「稲生もののけ録」に書いて残されやんして、大したものでありゃんす。妖怪の大将が木槌を持って現れて、もののけ騒動は終わったんでがんす。 

 

 稲生屋敷には29日間に亘って妖怪が現れたのですが、平太郎は時には三井権八とともに追い払ったり無視したり色々な手を使って妖怪を退けます。30日目に山本五郎左衛門と名乗る武士が現れ「私は妖怪の魔王で、平太郎さんの勇気と機転にはほとほと参ってしまった」といい、妖怪を呼び寄せることのできる木槌を置いて立ち去りました。

 平太郎は元服し武太夫と名を改めて武者修行の旅に出ます。権八は生まれ故郷の布野村へと足を向けたのですが・・・

 

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