三井権八プロフィール

 

 あっしは三井権八と申しまして、元相撲取りでがんす。ひょんなことから妖界に足を踏み入れまして、抜き差しならぬことになったんでがんすが、このページを開かれた貴方様もこの妖界から逃れることは叶いませんので観念してお付き合い願います。

 

 あっしが生まれたのは布野村でがんすが、そのことを知ったのは後に意気投合する稲生平太郎さん(元服して稲生武太夫)が遺したと言われる「三次実録物語」の巻頭に書かれた内容で、どうやら時間と時代が入り乱れたようなややこしい話でがんす。

 書き物は当時の ものでは難しゅうて分からんので、読みやすいように書き直しておりやんす。 

 

 享保元年(1716)三次の北方布野村に暮らす百姓夫婦に男児が誕生し、権八と名付けられました。生まれつき体が大きく力持ちで七歳のころには近在では相撲を取っても喧嘩をしても、及ぶものがないほどになりました。

 近親の者が「この子は相撲取りにしたら出世するに違いない」などと持ち上げるものですから両親もその気になり、九歳の春に三次五日市に住んでいた元関取に預けました。相撲を取らせると、近所の14,5歳の年長者でも敵う者がおりません。

 

 少年の権八が余りの強さを発揮するものですから元関取は大いに喜んで、権八を広島へ送り出しました。18時以降歳になるとさらに稽古を積んで驚くほどに強くなり、ついには大阪江戸表へ赴き大相撲の力士となりました。 

 その強さは桁外れで並みいる強者をねじ伏せて大関を張るほどになったのです。その評判を聞きつけ、参勤交代で江戸の屋敷に住まいしていた紀州藩徳川宗直(将軍徳川吉宗の子)から屋敷へ招かれて可愛がられるようになりました。さらには有力な大名のお抱え力士として、巷でも人気者となり、行く先々で持て囃されるようになっていきました。

 

 ということで相撲界の花形になったんでがんすが、人気が出て沢山の人から持ち上げられると人間という者は「天狗」になりがちで、あっしもついつい度を過ごしてしもうたんで学校んす。

 当時は相撲協会というものはありゃんせんで、相撲興行は勧進元が取り仕切っておりやんした。あっしは後ろ盾に紀州公がおりゃんすことをええことに、何でもかんでも気に入らんことがあると勧進元に逆らうて、興行を無断で休んで飲めや歌えの乱行を繰り返しやんした。腹に据えかねた勧進元の親分衆が談合してあっしを江戸表から追放してしもうたんでがんす。

 これには参りやんして詫びを入れやんしたが時すでに遅し、とうとう故郷に近い三次五日市へ帰ってきたんでがんす。

 まあこれがあっしの素顔でがんす。

 

【ここで一休み】

 広島県の北部に位置する三次市とは、中国自動車道と尾道松江道が交差する街です。更に西城川と馬洗川が合流し、可愛川が加わって、中国太郎の別名を持つ江の川となって日本海に向けて流れて行きます。

 この三次市に平成31年4月26日に「湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)」が開館しました。もちろん三次に伝わる「稲生物怪録」がその起源です。その中心人物である稲生武太夫(幼名平太郎)遺した妖怪物語で、そこに脇役として出てくる三井権八を紹介するのが、この「三井権八妖怪めぐり」なのです。

 

 ところで封建社会では武士にのみ名字帯刀が許され、百姓町人には苗字が認められておりませんでした。では何故「三井権八」なのか、それは紀州公から大関を張る権八に対して「三井」の称号(しこ名)を贈られたからと伝えられています。